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夏の雪 ~ 終章 七夕  [日々鉄道小景~ショートストーリー]

長い長いトンネルを抜けると、まぶしいくらいの緑が目に飛び込んでくる。

「長らくのご乗車、まことにありがとうございました。列車は間もなく終点、長野、長野に到着します。どなた様もお忘れ物のないように、お降り下さい。信越線、長野電鉄はお乗換えです」
そんな車内アナウンスが聞こえると、新幹線は徐々にスピードを落とし始めた。
気の早い乗客は、網棚の上から荷物を降ろして、下車する支度を始めている。

数か月ぶりに見る故郷の景色は、本当に緑一色だった。
木々も、田んぼも、山々も、初夏の太陽の光を受けて、その萌え出ずる緑を抑えきれないかのように、キラキラ、キラキラ輝いていた。

周囲の乗客が慌ただしく下車する支度をしているのを横目で見ながら、沙織は窓の外に映る故郷の風景をぼんやりと眺めていた。

そういえば夏になると、ケンちゃんに手を引かれて、田んぼにザリガニ釣りに出かけたっけ…
いや、あたしの方がわんぱくだったから、彼を無理やり引っ張りまわして、二人して田んぼに落っこちたんだっけ…?

遠い日の記憶は遥か彼方に色あせ、もう蘇ることのない淡いかけらとなってしまったけれど、それでも彼と過ごした時間が、まぎれもなく沙織の中に息づいているのだということだけは、鮮やかな―――そう、今日のこの夏の日のような鮮やかな色彩を伴って彼女の心の中に深く刻み込まれていた―――

――― 二度と帰らないと思っていたのに。
ケンちゃんから来たメールには結局返信をしなかった。
何度も、何度も途中まで文章を書いたが、どうしてもそれを送信できなかった。
――― 彼と会うこと、彼と話すこと、そして彼と向き合うことは、自分という存在をより一層みにくいものにするようでいやだった―――そして、何よりもあたしのような人はもう二度と彼に近づいてはいけないような気がしたのだ。
―――あたしにはもう、雪の降る音なんて聞こえないんだから―――

――― 結局自分がかわいいだけなんでしょ。そうやって何でもかんでも人のせいにして。自分の気持ちに正直に生きるのが怖いだけなんじゃない。そうよ、あなたってだから汚い人なの。

自分の中に芽生えたもう一人の沙織が、またそうやって話しかけてくる。そしてそれに反論しようとすればするほど、自分自身を深く深く傷つけているような気がした。
ここ数週間、いつ果てるとも知らない心の葛藤が続いていた。そうして、その闘いに疲れ、もうすべてのことが嫌になってしまった沙織の背中を押してくれたのは、コウさんだった。
「洋子さんもきっと待ってるから…」
昨晩の電話でそう言われ、ようやく決心をして、故郷の町に帰ることにしたのだった。


この町では毎年7月7日の七夕に合わせて、公園の近くを流れる川のほとりで「灯篭流し」を行うのが習わしだった。
死者の、祖先の霊を弔うために流す灯篭―――それは、彼らが故郷に帰る道しるべともなる、この町のひと月早い盆の恒例行事だった。

死んでいったご先祖様のように、この季節になると故郷を懐かしく感じるのは、やはりあたしもこの町の人間だからだろうか…
目を閉じると、写真の中でしか見たことのない、祖父母や父の顔が優しく微笑んでいた。そして―――その先頭には、懐かしいママがいて手を振って笑っていた。



故郷の駅に降り立つと、駅前には祭りで使う大きな山車が置かれていた。道の両脇には既に出店が並んでおり、年に一度のお祭りに町全体が浮き立っているかのようだった。


――― 本当に戻ってきてよかったのだろうか…
華やいだ町の様子を横目に、沙織はそんな複雑な気持ちを抱きながら、我が家に向かって歩き出した。


***



――― 天の川みたいだ…
もう子供の頃から何度も見ている風景だが、年に一度この風景を見るたびに、健一はいつもそう感じる。
夕暮れ時になり、川原には町の人が三々五々集まってきた。みな、手に手に灯篭を持ってやってきて、公園の真ん中にかかっているこの橋のたもとから、灯篭に火をつけて流すのだ。
大小さまざまの灯篭が、夕闇の中に浮かんでは消え、やがて一つの流れとなって川を行く様子は、まるで大空に横たわる天の川のようだった―――

天の川によって離ればなれとなってしまった織姫と彦星――― 年に一度しか会うことを許されなかった二人は、本当に幸せだったのだろうか…?
遠く離れていても、愛の力さえあれば幸せだというのは、神話の世界だけの夢物語ではないだろうか…
この前、灯篭流しの準備をしていたとき、ふと思ってコウさんにそう尋ねたが、彼は寂しそうに微笑むだけだった。

それが運命だとしたら、仕方ないと思うよ―――

―――運命。
そう、沙織と出会ったのも、洋子おばさんが倒れたのも、そして沙織が一人で上京したのもすべて、この流れ行く灯篭のごとく、抗うことは出来ない運命だったのかも知れない―――
そう考えると、その不安な心持ちが少しだけ軽くなるような気がした。

結局、沙織から返事はなかった。そして、もしかしたら今日来ないかも知れないという予感も彼の中にあった。

彼女が東京でどんな仕事をしてきたのか、母親を助けるためにどれだけ苦労してきたのか、健一には分からなかったし、それは簡単に理解できるものではないような気がした。
だが、彼女がそのことで深く傷ついているんじゃないかということは、なんとなく分かる気がした。
あの日―――亡くなった洋子おばさんの前で肩を震わせながら座り込んでいた彼女を後ろから見つめていたあの日―――そこには、僕が触れてはいけない、何か神聖な想いがあるような気がしたのだ。
それは、愛や悲しみということばでは言い表せない、もっと深い僕には到底理解できない、感情の揺らめきのような気がした。

そしてまたあの日、そんな彼女の後ろ姿をたまらなく愛おしいと思ったのも事実だった―――
のど元まで出かかった言葉―――だがそれを僕は言うことができなかった。
それを言ってしまうには、あまりにも彼女は美しかった―――

―――もし再び会うことができるのなら。
僕はこの想いを伝えることができるのだろうか…
遠くの川向うまで伸びる光の筋をぼんやりと見つめながら、健一はそう感じていた。
そして―――




「天の川、みたいだね」
懐かしい声が聞こえた。振り向くと、そこには本当に懐かしい彼女の姿があった―――
いつも灯篭流しの時に着ていたかわいらしい水玉模様の浴衣を身にまとって静かに立つ沙織の姿は、少し疲れていたようだけど、やはりとても神々しく見えた―――

***



ちゃぽん…ちゃぽん…
ケンちゃんがそっと手を放すと、ママの名前が書かれた灯篭は静かに水面に浮かび、やがて他の多くの灯篭と一緒にゆっくりと流れていった。

一つ一つは小さな光でも、それがたくさん集まり、やがて大きな光の渦となって流れていく――
その様子は本当に美しく、神秘的だった。灯篭流しをこれほど美しいと感じたのは今日が初めてだったかも知れない。そして、なぜかそれを天の川のようだと感じたのも今日が初めてだった。

「コウさんが沙織によろしくってさ。」
突然話しかけられて、あたしは少し驚いて彼――ケンちゃんの顔を見た。
「コウさん、施設に新しい子供が来るっていうんで、さっき帰ったんだ。沙織は来れないかも知れないけど、もし来たらよろしく伝えてくれって言ってたよ。」

「そう……」
数か月ぶりのコウさんの顔が浮かんだ。確か最後に会ったのは、東京に帰る日の夕方だった――
「あの灯篭も、コウさんの自作なんだ。あの人、結構手先が器用だからさ」
そう言ってケンちゃんはクスクスと笑った。
本当にありがたかった。見ず知らずの他人だったあたしたちに家族のように接してくれて、ママが亡くなってからも、陰になり日向になって支えてくれた。
あたしはもう遠くに流れてしまった灯篭の残像を見つめながら、コウさんの優しさを今更ながら噛みしめていた。

「ほんとはね。」
川面を見ながら、あたしはそうつぶやいた。
「ほんとはね、あたし、もう二度とこの町に帰らないつもりだったんだ。だから、コウさんが電話くれた時も、帰るとは言わなかった。でもコウさん、あたしをとがめるでもなく、優しく「そうかい…」って言ってくれたの…」
ケンちゃんは黙ったまま川面を見つめていた。もうあたりはすっかり暗くなっていて、お互いどんな表情をしているのか伺い知ることはできなかった。
「……だってそうでしょ。ママもいなくなっちゃったし、もうあたしの帰る場所は、この町にはないんじゃないかなって。あたしバカだよね。コウさんはずっと待っててくれてたのにね…」

―――それにケンちゃんもね。
やっぱり最後の言葉は、言えずに飲み込んでしまった―――



「…ねえ沙織、覚えてる?子供のころ交わした灯篭祭りの日の約束。」
どれくらい時間がたったのだろう…ケンちゃんは何を思ったか、ふとそんな古い話を始めた。
「あれはたしか、沙織が7歳になったときだったなあ。あの年の灯篭祭りも、確かよく晴れてたんだよ。沙織、今日であたしも7歳になったんだから!って言ってさ。もう大人なんだから、来年は俺と結婚するって言い出したんだ。あれおかしかったよなあ」
彼のしゃべり方は、なぜかあたしをイライラさせるほどのんびりだった。

「それでさ、俺も困っちゃって、「じゃあ沙織が今年の冬、雪の降る音が聞こえるようになったら結婚してあげるよ」って言ったんだよ。でも結局沙織忘れてたよな~その話。まったく沙織らしいよ…」
そう言って彼は、おかしそうにクスクスと笑った。
まるで少年のようなあどけない笑顔だった―――


あたしの中で、何かがはじけたような気がした―――
「……ないよ。」

「えっ?」
彼はよく聞こえなかったらしく、思わず聞き返した。

もう止まらなかった―――
「聞こえないよ、雪の音なんて!そもそも何よ!雪が降ってる時に音なんてするわけないじゃない!バカじゃないの!
ケンちゃんは良いわよ、そうやってきれいなものしか見て、聞いてこなかったんだから。
……でもあたしには絶対に雪の降る音なんて聞こえない。聞きたくても聞けないの!
ケンちゃん知ってる?あたし東京でどんだけ汚いことやってきたか?ケンちゃん絶対に理解してくれないと思うけど、あたしお金のためならなんだってやったんだよ!お金稼ぐためなら平気で嘘だってついたし、お世辞も言ったし、それに……それに、見ず知らずの男の人とだって寝たし!もうなんだってやったんだから!だからあたしには絶対にケンちゃんが聞こえるものは聞こえない!こんな汚れちゃったあたしが、ケンちゃんが聞こえるものが聞こえるわけないもん!ねえ、なんで?なんで、そんなこと言うの!?

ケンちゃんなんか、だいっきらい!



―――もう、お願いだから……お願いだからケンちゃんもあたしをきらいになってよ!!」



気が付くと、あたしの目から、大粒の涙がこぼれていた。なんで泣いてるんだろうということも、あたしにはよく分からなくなっていた――
ただとにかく、もうこれで終わり――いろいろなことが終わったのだという気持ちだった。

―――もう帰ろう……
そう思って彼に背を向けて歩き始めた、そのとき―――




―――ぬくもりを、彼の両手がそっとあたしの背中を包み込むのを感じた。

遠い昔から、ずっとそうであったかのように、ずっとそこにいたかのように、そして、そうすることが運命であったように、健一は沙織を抱きしめていた―――

「ごめんな。沙織がどれだけ苦しんでたのか、俺には全く理解してやることができなかった…本当に情けないよ。君の哀しみや苦しみの十分の一も、いや百分の一も分かってやることができないんだ。本当にごめんな…
本当に……ごめん―――」

ケンちゃんは泣いているようだった。彼の声があたしの耳に優しく響く―――
あたしは彼の腕の中で目を閉じた。

「――― だいじょうぶ。きっと沙織にも雪の降る音、聞こえるよ。ほら今だって。」
しばらくすると、そう言ってケンちゃんは彼の胸にあたしの耳を押しあてた。


もしかしたら―――
その音がなんなのか、一瞬、分かったような気がしたのだが、それは、やはりあたしには説明することができなかった―――
「ねえ、ケンちゃん…」
「ん?」
「あたし、幸せになれるのかな…こんなあたしでも、幸せになることができる…?」
彼の胸に顔を押し付け、少し鼻声のままあたしはそう尋ねた。


彼はそれには答えず、黙って夜空を見上げた。そして―――



「もし沙織が雪の降る音が聞こえないのなら。俺、待ってるよ。沙織が本当に雪の降る音が聞こえるようになるその日まで。
―――ずっと一緒に。」



遠くの空から列車の警笛が聞こえてくる―――



「ほらっ沙織、見て!流れ星!」
空を見ていたケンちゃんがそう叫んだ。
あたしは空を見上げた。流れ星はすぐに消えてしまったみたいで、あたしにはそれを見ることはできなかったけれど、
澄んだ夜空には、本当に満天の星空が美しく光り輝き、今にも降って来るみたいで―――




―――それは、夏の夜空に舞う雪だった―――



―― 完 ――


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[カバー写真:小海線 小淵沢~甲斐小泉 この物語はフィクションです]

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